今日、本当に嬉しかった話 〜 私がナチュラル詩吟教室を始めた理由



今日、ある生徒さんからメールをいただきました。  


その方からは、「今度身内の快気祝いがあるから、それに合う詩吟はありますか?」というリクエストをいただいていて、そのようなものはあまりないのですが、うーんと考えた末、荻生徂徠の漢詩「還館口号」がいいのでは、ということでお稽古をしていました。


この詩の転句では、


須く識るべし良宵 天下に少なるを
すべからくしるべしりょうしょう てんかにまれなるを


とあります。


「こんな良い夜はこの世にめったにあるものではない」


 という意味です。


背景には、美味しい葡萄酒を飲んで、富士山にはお月様がかかっている、という状況です。
ともあれ、「今夜は最高!」といった明るい雰囲気に満ちていて、飲み会でもなんでも場の雰囲気を盛り上げてくれる詩と、私は思っています。



話は戻って、その生徒さんのメールには、どうやら快気祝いの前に、学生時代の同級生たちとの久しぶりの飲み会があって、終盤にこれを吟じたとのこと。


それが思った以上に喜ばれたそうなのです。


しかも、年齢的・状況的にまさに小津安二郎映画(『彼岸花』)の笠智衆たち(同窓会の終盤に笠智衆が詩吟を吟ずる名シーンがあります/※気になった方は上記動画をご参照ください。『詩吟女子』でも詳しく解説しています)に酷似しており、彼自身も(かなり飲んだ後だったせいもあって)リラックスして笠智衆のように吟じることができ、終わった後は涙が出そうな気持になりました。


という内容のメールでした。


そして、「(同窓会が)詩吟必須の飲み会になりそうです。」とのこと。



私はこのメールを自宅でよんで、パソコンの前で一人、微笑んでしまいました。



と同時に、本当に嬉しい、胸が熱くなるような、何とも言えない気持ちになりました。



その時、ちょうど読んでいた本にこうありました。



「美しい日本語などという概念は、美しい人間関係があって、初めて可能なものだ。」 



 (『地図を創る旅』/平田オリザ(白水社))



語っている背景はちょっと違うかもしれないけれど、もしかしたら、そういうことなのかもしれない。何かがつながったような、或はとてつもなく大切なことに近づいたようなそんな気分でした。


また、私は自分が詩吟教室を始めたきっかけについて、すっかり忘れてしまっていたのを思い出し、ハッとしました。


その前提に、常々生徒さんたちには、出来の善し悪しに関わらず、ご家族やご友人に聞いてもらってくださいね、ということを言っているのですが、つまり、先の生徒さんはそれを実際にやってみた結果、そういうことになったわけで、まあなかなか勇気のいることなんです。


でも、なぜ私がそれをおすすめするかと言うと、実際に今まで何十年も詩吟の会の発表会でしかほとんど人前で吟じてこなかった私が、大人になってから、詩の意味を理解し、とても大切な友人たちの前で、その状況にふさわしい詩を吟じたときに、本当にびっくりするくらい喜ばれて、今まで感じたことのない、最高に幸せな気分に成り得たからなのです。



そのとき改めて詩吟の素晴らしさを噛みしめ、これはみんなに伝える価値があるものだと、若輩者で浅はかながらも確信し、ナチュラル詩吟教室なるものを立ち上げ、今に至ります。



ただ、それまでにもたくさん苦い経験はありました。



小学生の時に同級生の男の子たちの前で吟じたら、「やーい、へんなのー」と言われたり、オーストラリアへ短期留学へ行った際にホームステイ先の家族の前で吟じたら、そこの子ども達に笑われたり、 とかく外で吟ずることは「おかしなもの」とされてしまうことが続き、さすがにへこたれてしまいました(それでも辞めなかったのが救いですが)。



今思えば、普段聞いたこともないようなものに出会ったときに、笑ってしまったりすることは普通の反応です。わからないのが当たり前で、当の吟じている本人だって何がなんだかわかっちゃいないわけです。



私がこのようなことを言うのは、もし万が一、そういうことがあっても、そこには新しい何かが確実に生まれているのであって、気にしないでほしいという気持ちがあってからです。



そしてだからこそ、吟じている本人は、吟じる詩に対しての理解が最低限でもあるべきだ、と思っています。



***


先日、中学二年生の生徒さんと、島崎藤村の「初恋」の詩吟をお稽古しました。とっても素敵な詩吟なのですが、新しい旋律と「初恋」という照れもあってか、そのこが突然笑い出して、私は子供の頃の苦い経験を思い出し、年甲斐もなく素直に「傷ついた」と言ってしまいました。


ただその後に、ちゃんと詩の内容を説明すると、最初は意味がわからない、と言っていた彼女も理解してくれたらしく、 これに似たドイツのお話しを知っていると言って私に聞かせてくれました。詳しくは知りませんが、島崎藤村の「初恋」と同様に、林檎をキーにした恋の話です。


***


先日また嬉しかったのが、別の生徒さんで、詩吟を始める前から歌のレッスンに通っているそうなのですが、詩吟を始めてから歌のお教室で、「この短期間でとてつもなく上達した」と褒められたそうです。それで、彼女が言うには、


「(自分自身が褒められると)子供みたいに顔がほころんで嬉しいんですね。褒められることがこんなに嬉しいなんて思いもよりませんでした。自分の子供(既に成人している)にも褒めて育てるべきだった(笑)」


そんな嬉しそうにしている生徒さんをみて、詩吟のおこりうる可能性について考えています。


***


詩吟を吟じることは、その詩に近づくことだ、とこのブログでも常々言ってはいますが、結局のところ、上記にあげた笠智衆の詩吟のように、聞いているこちらは当然その吟じられている詩の言葉ないし意味などよくわからなくても、その声に、そしてその行為というよりもその態度に、感動するのかもしれません。


先日、開催した「お花見詩吟会」(とんでもなく楽しかったのですが、その様子を動画でもご覧頂けます)でほとほと感じたのは、 吟じられている詩の意味など(桜にちなんだつもりが)、実際には入ってこなくて、それよりもなお、吟じている人がいて、それを聴いている私たちがいる、ただそれだけなのです。


ただそれだけのことが、本当に感動的で、生きている喜びすら感じさせてくれる。


言葉を発する、発音する、その声の力が、精巧かどうかに関わらず、私たちをいい方向へ導いてくれるのかもしれません。


つまりは、コミュニケーションの核となるもの。


だからこそ、大切な人の前や、意を同じくした人の前で吟じてみる。


そこで、はじめて、日本語の美しさに直面する。


その心の通い方こそが、日本らしさなのかもしれない、と感じています。


▶他の詩吟コラムを読む
▶ナチュラル詩吟教室「無料体験レッスン」のお申し込みはこちら
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)